本記事で使用するベトナム語の呼称について
本記事では、ベトナム語の呼称を原語のまま表記し、初出時のみ日本語で意味を補足しています。以降は anh(アイン)のように表記し、同じ説明は繰り返しません。
| ベトナム語 | 意味 |
|---|---|
| anh(アイン) | 自分より少し年上の男性への呼びかけ。「兄」に近い語だが、家族以外にも広く使われる。 |
| chị(チ) | 自分より少し年上の女性への呼びかけ。「姉」に近い語。 |
| em(エム) | 自分より年下の相手への呼びかけ、または自分をへりくだって表す際にも使われる語。「弟・妹」に近い。 |
| cô(コー) | 親世代くらいの女性への呼びかけ。「おば(父母より年下の女性親族)」に近い語。 |
| chú(チュー) | 親世代くらいの男性への呼びかけ。「おじ(父母より年下の男性親族)」に近い語。 |
| bác(バック) | 親世代以上で、自分の父母より年上の人への呼びかけ。「伯父・伯母」に近い語。 |
| ông(オン) | 高齢の男性への呼びかけ。「おじいさん」に相当する語。 |
| bà(バー) | 高齢の女性への呼びかけ。「おばあさん」に相当する語。 |
| cháu(チャウ) | 祖父母世代や親世代に対して自分を表す語。「孫・子どもの世代」に当たる立場を示す。 |
これらは本来、家族内の続柄を表す言葉だが、ベトナムでは日常生活の中で血縁関係のない相手にも広く使われている。
初めてベトナムを訪れた外国人旅行者の多くは、思わぬ場面で戸惑う。ホーチミン市の食堂に入ると、店員が笑顔で「Anh dùng gì ạ?(アイン、何になさいますか?)」や「Chị ăn gì ạ?(チ、何を召し上がりますか?)」と声をかけてくる。市場やコンビニ、配車アプリを使うときも同じで、初対面にもかかわらず anh(アイン)、chị(チ)、em(エム)、時には cô(コー)や chú(チュー)と呼ばれる。
ベトナム語の anh、chị、em、cô、chú、ông、bà は、本来は家族の中で使う呼び方だ。それにもかかわらず、日常生活ではまったく面識のない相手に対しても、ごく自然に使われている。多くの外国人にとって、これはなかなか馴染みのない感覚だろう。
変わるのは相手の呼び方だけではない。話し手が自分をどう呼ぶかも、相手に合わせて変わる。相手を anh と呼ぶなら、自分は em と名乗るのが一般的だ。相手を cô と呼ぶ場合には、自分を cháu(チャウ)と表現することもある。初対面の二人であっても、最初の数回のやり取りだけで、同じ家族の中にいるかのような呼称の関係ができあがってしまう。ベトナム人にとってはごく自然な習慣だが、一つの代名詞を幅広く使い回す言語圏から来た旅行者にとっては、この国で最も興味深く感じる文化のひとつになっている。
筆者もホーチミン市内で飲食店やカフェ、市場を取材する中で、初対面にもかかわらず「Anh ơi」「Chị ơi」と自然に呼びかける場面を何度も目にした。店員だけでなく、Grabドライバーや市場の店主など、場所が変わっても呼称の使い方はほとんど変わらず、この文化が日常生活に深く根付いていることを実感した。
取材期間中には、年齢を聞かれた直後に店員が呼称を「anh」から「em」へ自然に言い換える場面や、Grabドライバー同士が初対面でも互いを「anh」「em」と呼び合う様子も確認した。観光地だけでなく、地元住民が利用する食堂や市場でも同様の使い方が見られ、呼称文化が特別な場面ではなく日常生活そのものに根付いていることが分かった。
なぜベトナム人は見知らぬ人を「anh」「chị」「cô」「chú」と呼ぶのか
理由を理解するには、ベトナム語にはあらゆる相手・あらゆる場面で使える共通の人称代名詞が存在しないという事実を押さえておく必要がある。英語の"you"はほぼすべての相手に使えるが、ベトナム語の tôi、bạn、anh、chị、em はそれぞれ使える場面が限られており、誰に対しても自然かつ丁寧に使える万能な呼び方は用意されていない。だから初対面の相手を前にすると、多くのベトナム人は無意識のうちに相手の見た目から年齢を推し量る。
少し年上に見える男性には anh、女性には chị。自分より若そうであれば em。両親と同世代くらいなら cô、chú、あるいは bác(バック)。さらに高齢であれば ông か bà。こうした呼び方を選ぶのは、相手を本当の家族だと思っているからではなく、会話の入り口でふさわしい関係性を設定し、そのあとのやり取りを自然で礼儀正しいものにするためだ。ベトナム人が会話の早い段階で年齢を尋ねるのも、この理由による。多くの文化圏ではプライベートな質問とされがちだが、ベトナムでは単純に「どう呼べば失礼にならないか」を確かめる意味合いが大きい。
実際の年齢が分かったあとで、会話の途中に呼称を変えることも珍しくない。最初は anh と呼んでいた相手が自分より年下だと分かれば、途中から em に切り替える。これは相手を見下したり区別したりする行為ではなく、その場にふさわしい呼び方へ単に修正しているだけである。
「anh」「chị」に込められた本当の意味
呼び方だけを見ると、ベトナムの呼称体系は年上と年下を区別するため、あるいは上下関係を示すためのものだと考える外国人も少なくない。だが、その役割はもっと広い。
日常会話における anh、chị、em、cô、chú、bác は、まず何より、会話の最初のひと言で二人の関係性を自然に定める働きを持つ。すべての相手に同じ呼び方をするのではなく、年齢やその場の状況に応じた呼称を選ぶことで、やり取り全体がより自然に進むようになる。
ホーチミン市のカフェでは、店員がこう声をかけてくることがある。「Anh dùng gì ạ?(アイン、何になさいますか?)」「Chị chờ em một chút nhé.(チ、少々お待ちくださいね)」。店員は客を本当の兄や姉だと思っているわけではなく、これは日常生活の中で長く使われてきた、ごく一般的で丁寧な話しかけ方にすぎない。しばらくベトナムに滞在した旅行者の中には、「地元の人と話すと、どこか親しみを感じる」と口にする人が少なくないのも、このためだ。ほんの数回言葉を交わすだけで初対面同士に自然な呼称の関係が生まれ、多くの国で見られる距離感より少し近い空気ができあがる。もっとも、これはベトナム人が見知らぬ相手を家族のように考えているという意味ではない。anh、chị、em は、敬意を示しながら会話を和やかに始めるための、社会的な取り決めとして定着している言葉なのだ。
実際に数日間ホーチミン市内を歩いていると、この呼び方は飲食店だけではない。コンビニ、カフェ、ショッピングモール、タクシー乗り場などでも繰り返し耳にする。旅行者にとっては珍しく感じるが、現地ではごく当たり前の日常会話である。
なぜこの呼称文化は今も受け継がれているのか
研究者の多くは、ベトナムの呼称体系が歴史と文化のさまざまな要素の積み重ねから形成されてきたと見ている。よく挙げられる要因のひとつが、年長者への敬意と世代間の秩序を重んじる儒教の影響だ。こうした価値観が、年齢や立場に応じて呼び方を選ぶ習慣の形成に一定の役割を果たしたと考えられている。ただし、これだけで説明を終えてしまうのは不十分だろう。
ベトナムでは長い歴史を通じて、多くの人々が村落共同体の中で暮らしてきた。複数の家族が密接に暮らし、近所同士が古くからの顔なじみであったり、親戚関係や婚姻関係で結ばれていたりすることも珍しくなかった。そうした環境では、自分より年上の人物を chú、cô、bác、ông、bà と呼ぶことが、次第にごく自然な会話の形として根づいていった。文化人類学者 Hy V. Luong は、著書 Discursive Practices and Linguistic Meanings: The Vietnamese System of Person Reference(1990年)の中で、ベトナムの呼称体系は本来家族内で使う言葉を社会全体の人間関係にまで広く適用している点に特徴があると論じている。この見方は、anh や chị、cô、chú が見知らぬ人同士の間でも使われ続けている理由を考えるうえで、一つの手がかりになる。
今のベトナムは大きく変わった。都市化が進み、国際的な職場環境も増え、英語でのやり取りも以前より身近になっている。それでも、食事や買い物、配車、道を尋ねるといった日常の場面では、多くのベトナム人が今なお従来の呼称を使い続けている。この事実は、呼称体系が単なる言語上の特徴にとどまらず、幾世代にもわたって受け継がれてきたコミュニケーション文化そのものであることを物語っている。
観光政策や最新の観光情報については、ホーチミン市観光局やベトナム文化スポーツ観光省でも公開されている。
家族の中では、呼称はさらに複雑になる
見知らぬ人への呼び方は主に年齢で決まるが、家族の中の呼称はそう単純ではない。ベトナムでは、家族内の呼び方が実年齢だけでなく、一族内の「序列(世代・続柄)」によって決まるからだ。この点は、多くの外国人が最も理解しづらいと感じるところでもある。いとこが自分より年下でも、一族の中で目上の立場にあたる場合は anh と呼ぶ。逆に、自分より年上のいとこであっても、一族の序列上は年下にあたる場合には em と呼ぶことがある。
ベトナムには古くから知られたことわざがある。「Bé bằng củ khoai, cứ vai mà gọi.」——直訳すれば「イモほど小さくても、序列にしたがって呼べ」という意味で、家族の中の呼び方は実際の年齢よりも続柄や世代の序列を優先することを表している。ただし、このルールが働くのは主に血縁関係のある者同士の間だけだ。近所の人や同僚、初対面の相手と接する日常の場面では、相手のおおよその年齢を見て呼称を選ぶだけで十分である。
ベトナム人はいつもこの呼び方をするのか
いつもというわけではない。行政文書や契約書、スピーチ、公的なアナウンスなど、改まった場では、より中立的な表現に切り替わる。話し手は自分を tôi(トイ、「私」)と名乗り、相手のことは quý vị(クイ・ヴィ、「皆様」)、quý khách(クイ・カック、「お客様」)、khách hàng(カック・ハン、「顧客」)と呼ぶのが一般的だ。こうした表現なら、相手の年齢を判断しなくても礼儀正しさを保てる。
行政機関が公開する文書でも、このような公的な呼称表現が用いられている。
職場でも同じ傾向が見られる。多くの外資系企業では、業務の効率を優先して社員同士が名前や役職で呼び合う。一方、ベトナム企業では、互いに顔なじみになると anh、chị、em が今も広く使われ続けている。この違いからも分かるとおり、ベトナムの呼称体系は固定的な規則というより、話し手がその場の状況と相手との関係を見ながら選び取っている、柔軟な仕組みに近い。
外国人旅行者はどう呼びかければよいのか
まず知っておきたいのは、ベトナム人の多くが、外国人旅行者にこの複雑な呼称体系を完璧に使いこなしてほしいとは考えていないという点だ。英語で話しかけたり、相手を名前で呼んだりしても、たいていの人はそれを言語や文化の違いとして自然に受け止めてくれる。ベトナム語で話しかけてみたいなら、覚えておく原則はひとつで十分だ。相手への敬意が伝わる呼び方を選ぶこと。飲食店の店員を呼ぶときや道を尋ねるときに、「Anh ơi...(アイン、すみません)」「Chị ơi...(チ、すみません)」と切り出せば、日常会話でごく自然に使われている話しかけ方になる。
年齢の見立てを外して呼び方がずれてしまっても、気にする必要はない。たいていのベトナム人は笑顔で受け止め、必要があれば「こちらの呼び方のほうが自然ですよ」とさりげなく教えてくれる。彼らにとっては、完璧な呼称を最初から使えることよりも、ベトナム語を使おうとし、敬意を示そうとする姿勢のほうがずっと大事なのだ。
旅行者向けワンポイント
- 飲食店では「Anh ơi」「Chị ơi」と呼びかければ自然です。
- 相手の年齢が分からない場合は、笑顔で丁寧に話しかければ問題ありません。
- 呼び方を間違えても、多くのベトナム人は気にせず、自然な呼称を教えてくれます。
- ホテルや高級レストランでは、英語で対応できるスタッフがいる施設も少なくありません。
旅行中によくある呼称の場面
| 場面 | よく使われる呼称 | 補足 |
|---|---|---|
| 食堂・カフェ | anh / chị | 年齢が近そうな客に対して使われることが多い。 |
| 市場 | cô / chú | 年上の店主にはこの呼び方がよく使われる。 |
| Grab利用時 | anh / chị / em | 年齢差によって呼称が変わる。 |
| ホテル | 名前・Sir・Madam | 外国人旅行者には英語対応になることも多い。 |
ひとつの呼び方に表れる、ベトナムという文化
どの言語も、その社会が人間関係をどう捉えているかを映し出す。ベトナム語ではそれが呼称体系にはっきりと表れている。あらゆる相手に同じ代名詞を使う代わりに、年齢や会話の場面に応じて呼び方を選ぶ。anh、chị、em、cô、chú、bác、ông、bà という言葉だけで、話し手は相手への敬意を示しながら、会話をより自然なものにしている。ほとんどのベトナム人は幼い頃からこの体系の中で育つため、使い分けはほぼ無意識の行為になっているが、多くの外国人旅行者にとっては、ベトナムで最初に気づく文化の違いのひとつになる。
滞在の初日、店員から anh、chị と呼ばれたり、初対面の売り手が自分を em と名乗ったりして驚くかもしれない。だが、しばらく過ごすうちに、それが単なる言葉遣いの選び方ではなく、敬意と親しみを込めて会話を始めるベトナム流のやり方だと気づいていく人は多い。国際化が進む今のベトナムでは、名前や英語で呼び合う若い世代も増えている。それでも、街の食堂や市場、カフェ、商店では、「Anh ơi」「Chị ơi」「Em ơi」という声が今日も変わらず飛び交っている。
ベトナムを訪れる機会があれば、見知らぬ誰かに笑顔で anh や chị と呼ばれても驚かないでほしい。それはあなたを家族だと思っているからではなく、幾世代にもわたって受け継がれてきた、礼儀と親しみを表すための呼び方にすぎない。だが、こうした何気ないひと声の積み重ねの中にこそ、ベトナムという国の人づきあいの距離感が表れているのかもしれない。
この記事について
本記事はホーチミン観光情報ガイド編集部が企画・編集しました。
内容はベトナム在住スタッフによる現地取材、日常生活での観察、公開されている学術文献、公的機関の資料をもとに構成しています。
編集部では、文化的背景に関する内容について複数の資料を照合し、公開時点で確認できた情報のみを掲載しています。
編集ポリシー
更新日:2026年7月20日
- 現地取材で確認できた内容を優先しています。
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- 文化的背景については複数資料を照合して記載しています。
- 内容は必要に応じて随時更新します。
情報ソースについて
本記事は、ホーチミン市内での現地取材、ベトナム在住スタッフへのヒアリング、学術文献に加え、以下の公的機関・公式サイトで公開されている情報を参考に編集しています。
記事内で紹介している文化的背景や呼称の特徴は、公開されている学術資料および現地で確認した事例をもとに記載しています。
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