大通りから路地に入り、その奥にある家へ帰る。ホーチミンでそんな暮らしを始めて、3年目になりました。
ベトナム語で路地は「Hẻm(ヘム)」といいます。観光で歩くなら、入口から少しのぞいて、気になる店や建物を見つける場所かもしれません。私にとっては、朝に出かけ、夜に戻ってくる道です。買い物の荷物を運ぶのも、配達を受け取るのも、この道を通ってのことです。
今回は、私が暮らすヘムを、朝の声、隣人との距離、夜の音から書いてみます。ホーチミンの路地は、どこも同じではありません。これから書くことも、すべてのヘムに当てはまる話ではなく、一つの住まいの周りに目を向けた話です。
大通りから一本入ると、ホーチミンの住宅街「Hẻm(ヘム)」が始まります。撮影:ホーチミン観光情報ガイド編集部。
朝の路地は、物売りの声と一緒に動き始める
ヘムの朝について、まず書いておきたいのは物売りの声です。大通りを走る車の音とは違って、路地の中まで入ってくる声には、誰かに呼びかけている近さがあります。
ただ、その声を聞くことと、何を売っているか分かることは別です。ベトナム語に慣れていなければ、商品名なのか、呼びかけなのかも区別しにくい。聞こえた音をそのまま真似しても、文字にできるとは限りません。
朝の物売りの声を紹介するとき、私は「サイゴンらしい音」という一言だけでは終わらせたくありません。売っている人には仕事であり、買う人には朝食や日用品を手に入れる手段です。家から遠くへ出ずに買えることには、暮らす側の便利さがあります。
一方で、声を聞く側が、いつも同じ気分でいるわけでもありません。朝早くから動く日と、まだ眠っていたい日。その違いを抜きにして、住宅街の音をすべて心地よいものとして紹介するのも違うと思います。
路地での生活には、便利さと音の近さが一緒にあります。どちらかだけを選んで書くと、実際の暮らしから離れてしまいます。
ヘムの中にある小さな食料品店。遠くまで出かけなくても、日用品を買える便利さがあります。撮影:ホーチミン観光情報ガイド編集部。
隣人との距離は、家と家の距離だけでは決まらない
路地では、家の出入りが道に面しています。玄関を開ける、外へ出る、荷物を受け取る。その短い時間にも、近所の人と顔を合わせる機会があります。
こうした住宅街を紹介するとき、「住民同士の距離が近い」という表現をよく使います。でも、その近さにはいくつかの意味があります。顔を知っていること。挨拶をすること。長く話すこと。困ったときに頼れること。それらは、同じではありません。
私は、毎日顔を合わせる相手だからといって、必ず親しくならなければいけないとは思っていません。挨拶だけの関係があってもいいし、少し話す日と、そのまま家に入る日があってもいい。住んでいる年数だけで、付き合い方が決まるものでもありません。
特に、言葉が十分に通じないときは、何か話そうとして身構えてしまうことがあります。けれど、長い会話だけが近所付き合いではありません。通る人に道を譲る、作業の邪魔をしない、目が合ったら挨拶する。そうした小さなやり取りも、同じ場所で暮らすための接点です。
「家族のような温かさ」とまとめるより、近くに暮らしながら、それぞれの生活を続けていると書くほうが、私にはしっくりきます。親しさと、踏み込みすぎないことは、両立していていいはずです。
玄関の外には、ほかの人の帰り道がある
ヘムの奥へ続く細い道。自宅前の道も、誰かにとっては家へ帰るための通路です。撮影:ホーチミン観光情報ガイド編集部。
家の前にある道は、毎日使っているうちに自分の生活の一部になっていきます。けれど、その先には別の家があります。自分の玄関前が、誰かにとっては家へ帰るための通路でもあります。
荷物をいったん置く、バイクを動かす、配達の人と話す。広い場所なら気にならない動作でも、細い道では人の動きが重なります。自分は少しのつもりでも、その間に通りたい人がいるかもしれません。
路地の暮らしを考えるうえで、私はこの「少しだけ」に気をつけたいと思っています。短い時間なら何をしてもよい、というわけではないからです。道幅が限られている場所ほど、自分が使う空間の外側を見ておく必要があります。
バイクを止めるなら、隣の人が出入りできるか。荷物を広げるなら、通れる幅が残っているか。配達を受け取るなら、入口をふさいでいないか。大きな決まりより、こうした確認の積み重ねが、日々の通りやすさにつながります。
観光で歩くだけなら見落としやすいことですが、家までの道は、毎日使い続けるものです。きれいな写真が撮れるかどうかとは別のところに、暮らしの都合があります。
夜のバイクの音は、帰宅する人の音でもある
ヘムの奥という住所だけで、静かな家を想像することはできません。大通りの交通音が離れていても、近くを通るバイクや、家の扉の音はあります。
音の大きさだけでなく、どこで聞くかも関係します。道に面した部屋なのか、家の奥の部屋なのか。窓が開いているのか、閉まっているのか。同じ路地でも、住まいの造りによって聞こえ方は変わります。
夜のバイクについて書くと、どうしても「うるさいか、静かか」という評価になりがちです。でも、それは誰かが仕事や用事を終えて帰ってくる音でもあります。聞く側には休む時間があり、帰る側には帰る事情があります。
もちろん、事情があるから何の配慮もいらない、という話ではありません。家の前で長くエンジンをかけたままにしない。夜の会話を外で続けない。扉を乱暴に閉めない。自分が帰宅する側になったときにも、気をつけられることはあります。
私が伝えたいのは、音に慣れさえすれば解決する、ということではありません。眠りやすさは住まいを選ぶ大切な条件です。これからヘムの部屋を探す人には、昼の雰囲気だけで決めず、夜の周辺や寝室の位置も確認してほしいと思います。
家までの道も、住まいの条件に入れておく
部屋探しでは、家賃、広さ、家具、冷房などに目が向きます。私なら、そこに「大通りから玄関まで」を加えます。家の中が気に入っても、その道は毎日通ることになるからです。
車が入れるところから、どれくらい歩くのか。大きな荷物を運ぶとき、どこで降ろせるのか。夜に帰るとき、入口を見つけやすいか。地図上の距離だけでは分からないことがあります。
配達も同じです。地図で家の近くまで来られても、最後の曲がり角が伝わりにくい場合があります。住所を送ることに加えて、どこで受け取るかを決めておく。分かりやすい目印を伝える。必要なら、自分が入口まで出る。そのほうが、お互いに探し続けずに済むこともあります。
雨の日の道も、確認しておきたいところです。屋根があるか、路面が滑りやすくないか、入口の前に水がたまることがあるか。路地ごと、建物ごとに違うので、ヘムだから冠水する、ヘムの奥だから大丈夫、と決めることはできません。
「この家は便利ですか」と聞くより、自分が困りそうな場面を具体的に尋ねる。暮らす場所を選ぶときには、その聞き方が役立つと思います。
3年目の話として残したいのは、便利さと不便さの両方
路地の暮らしを、温かい人情だけで紹介することも、騒音や不便さだけで紹介することも、私は避けたいです。近所の人と顔を合わせられることと、一人で静かに過ごしたいことは、どちらも暮らしの中にあります。
物売りが家の近くまで来る便利さがあれば、声が近く聞こえることもある。大通りから離れた場所に住めば、車を降りてから歩く距離も生まれる。一つの特徴が、場面によって長所にも短所にもなります。
3年目という時間だけで、何かを分かりきったように書くつもりはありません。自分の生活に合うことと、今も工夫が必要なことを、分けて見ておきたい。それが、これから暮らす人にも伝えたいことです。
ヘムは、外から眺める街並みであると同時に、毎日を送る住所です。朝の出勤も、荷物の受け取りも、夜の帰宅も、同じ細い道の上に重なっています。
旅行でヘムに入る人へ、お願いしたいこと
路地の奥が気になる気持ちは分かります。大通りから少し入っただけで、建物との距離や人の動きが変わる。歩いて確かめたくなる場所もあるでしょう。
ただ、そこで暮らす人にとっては、いつもの家の前です。玄関が開いていても、中をのぞいたり、写真を撮ったりしてよいという意味ではありません。
- 声を少し落とす。会話だけでなく、動画の再生音や通話の声も、近くの家へ届くことを意識してください。
- 撮る前に尋ねる。人の顔、家の中、食事や仕事の様子を撮影する場合は確認を。撮影の許可と、SNSやウェブサイトへの掲載許可は分けて考えてください。
- 挨拶は自然に。目が合えば会釈から。相手が忙しそうなら、会話や撮影を求め続けず、そのまま通りましょう。
- 入口と道をふさがない。地図を見たり写真を撮ったりするときは、通る人やバイクを先に通してください。
- 入ってよい場所か確かめる。門が開いていることだけで判断せず、私有地や立入制限のある場所には入らないでください。
私が路地について書くとき、最後に残しておきたいのは、珍しい風景を見つけるためのコツではありません。自分が立っている場所は、誰かが今日も暮らしている場所だということです。
そう考えれば、歩くときの声も、立ち止まる位置も、カメラを向ける先も変わります。ヘムを訪れる人にとっても、暮らす人にとっても、その小さな配慮は大切だと思います。
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