ホーチミン在住14年が書く、どこよりも詳しいバインミーの話
プロローグ ―― ベトナムのバインミーは、なぜこんなに美味しいのか
ホーチミンでバインミーを食べたことがある人なら、あの瞬間を覚えているはずだ。
かじったとき、外側がパリッと音を立てる。薄い皮が割れて、中から軽い生地が現れる。ふわふわとも言えるし、スカスカとも言える、あの独特の軽さ。日本で食べたことのある「バインミー」と、何かが根本的に違う。
旅行者からよく聞く感想がある。「なんでこんなに美味しいんですか?」
正直に言うと、私もしばらく「なんででしょうね」としか答えられなかった。14年ホーチミンに住み、数えきれないほどバインミーを食べてきたのに、その理由を言語化できていなかった。
答えは、パンそのものにある。
バインミーのパンは、見た目こそフランスのバゲットに似ているが、構造が違う。フランスのバゲットは皮が厚く、中身は密度が高くてしっかりとした噛みごたえがある。一方、ベトナムのバインミーは皮が薄く、卵の殻のようにパリッと割れる。中は非常に軽い。この食感は、高タンパクの小麦粉と、焼成時の蒸気を使った技術によって生まれる。同じ小麦粉のパンでも、配合と製法が異なれば、食感はまったく別物になる。「バインミーのパンには米粉が入っている」と思っている人も多いが、それは正確ではない。その誤解の背景と、あの食感の本当の理由は第2章で詳しく説明する。
さらに言えば、バインミーは焼きたてが前提だ。ホーチミンの屋台や街のパン屋が、早朝から大量に焼いては売り切り、また焼く。あの薄い皮の食感は、焼いた当日、できれば数時間以内が最もよく出る。日本で売られているバインミーとの違いは、輸送と時間の問題でもある。
この記事では、バインミーとは何か、なぜあの食感が生まれるのか、そしてホーチミンのどこで食べるべきかを、できるかぎり具体的に書いた。
バインミーは、屋台で買う150円のパンではある。しかし同時に、フランス植民地時代の歴史と、ベトナムの食文化が合わさって生まれた、100年以上の歴史を持つ食べ物でもある。
読み終えたとき、次にバインミーを齧る感覚が少し変わるかもしれない。
第1章 バインミーとは何か
1-1 「バイン」と「ミー」の意味 ―― 名前の由来を紐解く
ホーチミンの街を歩けば、「Bánh Mì」という看板はどこにでも目に入る。屋台の手書き文字から、エアコンの効いた専門店のネオンサインまで、形はさまざまだ。しかし、この2つの単語が何を意味するのかを正確に知っている日本人は、意外と少ない。
「バイン(bánh)」は、米や小麦など穀物を原料とした食品全般を指すベトナム語の語だ。蒸し料理も、揚げ物も、ケーキも、すべてバインと呼ばれる。バインミー、バインクオン、バインセオ――これらが同じ「バイン」で始まるのは、いずれも穀物を使った食品だからだ。語源としてのbánhは、フランスと接触する以前の13世紀にはすでに存在が確認されており、ベトナム語の辞書に「bánh mì(小麦のバイン)」という表記が登場するのは1830年代のことだ。フランス人宣教師ジャン=ルイ・タベールが1838年に編纂したラテン語・ベトナム語辞典にその記録がある。
「ミー(mì)」は小麦を意味する。つまりバインミーとは文字通り「小麦でできた食品」であり、ベトナム語としては単純にパンを指す普通名詞だ。日本語で「パン」と言うように、ベトナム語ではパン全般をバインミーと呼ぶ。
では、なぜバインミーが「あのサンドイッチ」を指すようになったのか。それはこの食べ物が、ベトナムの食文化においてパン=バインミーのデフォルトになったからだ。具材を挟んだサンドイッチは正式には「bánh mì thịt(バインミー・ティット、肉入りバインミー)」と呼ばれるが、現在ではバインミーとだけ言えばサンドイッチのことを指すのが一般的になっている。
ホーチミンに移住した当初、私はすでにベトナム語をある程度勉強していたので、街の看板はある程度読むことができた。しかしバインミーという言葉が「パン」を意味するとは知らなかった。周囲のベトナム人に教えてもらって初めて、看板が単なるパン屋の屋号ではなく、パンそのものを売っているという当たり前の事実に気づいた。言語を学んでいても、現地での文脈がなければ意味が繋がらない。バインミーはそれを最初に教えてくれた言葉のひとつだった。
なお、英語圏では「banh mi」がすでに固有名詞として定着している。2011年3月24日、オックスフォード英語辞典にbanh miが収録された。世界的に認知された食文化としての地位を、この辞書への掲載が象徴している。
1-2 フランス植民地時代が生んだパン ―― 歴史と誕生の背景
バインミーの原型であるバゲットがベトナムに持ち込まれたのは1860年代、フランスがベトナム南部(コーチシナ)を植民地支配し始めた時期にさかのぼる。1859年にフランス軍がサイゴン(現ホーチミン)のジャーディン城塞を攻略した後、フランス人入植者が増加し、彼らの食文化とともにバゲットが広まった。
当初、バゲットはフランス人と一部のベトナム人エリートだけが口にできる高級品だった。小麦粉はヨーロッパからの輸入品であり、価格は庶民には手が届かなかった。歴史家のエリカ・J・ピーターズによれば、フランス軍が現地のベトナム人にパン作りを教えたことで、技術を身につけたベトナム人のパン職人が独自に店を開き始めたという。
転機となったのは第一次世界大戦(1914〜1918年)だった。開戦直後、サイゴンにあった2つのドイツ系輸出業者の倉庫がフランス軍によって接収された。その後フランス兵がヨーロッパへ移動すると、コールドカット、チーズ、バゲットといった食材が市場に大量に放出され、価格が急落した。これまで高価で手が届かなかった食品が、初めて庶民の手に入るようになった。
同時期、ヨーロッパからの小麦輸入が滞ったことで、ベトナムのパン職人たちは安価な米粉を小麦粉に混ぜる技術を開発した。これによってパンのコストが下がり、食感も変化した。フランスのバゲットとは異なる、軽くて薄い皮のパンが生まれた背景には、単なる技術的な工夫だけでなく、経済的な必然性があった。
当時のサイゴンのパン屋は1日2回焼いていたという記録がある。ベトナムの高温多湿な気候のなかでは、パンが乾燥・劣化するのが早いため、焼きたてを提供するサイクルが自然と確立されたのだろう。この「焼きたてを前提とする」という慣習は、現在のホーチミンの屋台や街のパン屋にも引き継がれている。
当初はバゲットをフランス式に食べていた。バターを塗り、冷製ハム(ジャンボン)を挟んだシンプルなサンドイッチだ。南部のベトナム人は「bánh mì」、北部では「bánh tây(バインタイ)」すなわち「西洋のバイン」と呼んでいた。それはまだ、外来の食べ物としての位置づけだった。
1-3 ベトナム化の歴史 ―― バゲットがバインミーになるまで
バゲットがバインミーとして完成したのは1950年代のことだ。1954年、フランスとベトナム軍の戦いであるディエンビエンフーの戦いでフランスが敗北し、インドシナからの撤退が決まった。同年のジュネーブ協定によってベトナムは北緯17度線で南北に分断され、北部から100万人以上の人々が南部のサイゴンへと移住した。
この大規模な人口移動が、バインミーの歴史における最大の転換点となった。北部からの移住者の中に、Lê Minh NgọcとNguyễn Thị Tịnhという夫妻がいた。2人は1958年、現在のNguyễn Đình Chiểu通りにあたる場所でHòa Mã(ホアマ)を開業し、具材をパンの中に詰め込んで持ち歩けるサンドイッチとして売り出した。これがバインミー・ティット(肉入りバインミー)の始まりとして記録されている。その後、現在の3区Cao Thắng通り53番地へ移転し、現在も同地で3世代にわたって営業を続けている。
ベトナム化のプロセスは具材の置き換えによって進んだ。フランス式のバターはマヨネーズに替わり、高価なコールドカットの代わりにチャルア(蒸し豚ソーセージ)や焼き豚が使われるようになった。そこに加わったのがベトナム独自の要素だ――ドーチュア(大根と人参のなます)の酸味、パクチーの清涼感、唐辛子の辛味。これらが組み合わさることで、フランスの食材とベトナムの食材が対等に共存する食べ物が生まれた。
具材の組み合わせを改めて見ると、その構成はフランス料理の考え方と一致している部分がある。パテの濃厚なコク、ハム類の塩味、マヨネーズの油脂分、そして野菜とハーブによるさっぱりとしたバランス。数え切れないほどバインミーを食べてきたが、ハム・パテ・マヨネーズ・パクチーが入った標準的なバインミーには、どこかフランス料理的なバランスの良さがある。ただしそれはあくまでベトナム人が解釈し再構成した結果であって、フランス料理をそのまま踏襲しているわけではない。
街のバインミー屋台については、この20年間で変化が起きている。以前はホーチミンのどのエリアにも路上の屋台があったが、再開発が進んだビル街やマンション密集地では屋台の数が減った。一方で、エアコンの効いた清潔感のある専門店が増え、インターネットで注文できる店も登場した。屋台が変わらず存在し続けているエリアでは、30年前と変わらないスタイルで営業している店もある。
2011年にオックスフォード英語辞典に収録されたことに象徴されるように、バインミーは現在では世界的に知られた食べ物となった。しかしホーチミンの地元の人々にとって、バインミーはあまりに日常的な食べ物であるため、話題として取り上げることすらない。毎日どこかで食べているものについて、あえて語ることもないのだろう。その存在感の薄さが、逆にこの食べ物の日常への根付き方を表している。
第2章 バインミーの構造を徹底解剖
2-1 あのパンは何でできているのか ―― バインミーパンの秘密
バインミーのパンを初めて食べた人が最初に気づくのは、その軽さだ。
フランスのバゲットと外見はよく似ているが、手に取った瞬間から重さが違う。フランスのバゲットは中身がしっかり詰まっていて、輪切りにしてバターを塗り、そのまま食べても食事として成立する。バインミーのパンは、輪切りにすること自体が難しい。中がほぼ空洞に近い状態で、皮だけで形を保っているからだ。スカスカと言ってもいいし、軽いと表現してもいい。とにかく密度が低い。
この食感を生み出しているのは、製法と材料の組み合わせだ。バインミーのパンに使われる小麦粉は、タンパク質含有量が11〜13%程度の高タンパク粉が基本とされる。タンパク質が多いほどグルテンネットワークが強く形成され、発酵時に発生する気泡を逃さず閉じ込められる。結果として、薄い皮の中に大量の空気が入った軽い生地ができあがる。
もうひとつの重要な要素が、焼成時の蒸気だ。パンを高温の窯に入れる際に蒸気を当てることで、表面が急速に薄い膜を形成する。この膜がパリッとした薄い皮になる。フランスのバゲットも同じ原理で皮を作るが、バインミーの皮はさらに薄く、卵の殻のような繊細さがある。歯を立てた瞬間に割れるというより、砕けるという表現の方が近い。
かつてはバインミーのパンに米粉が使われていたという説が広く流布していた。しかし複数のパン職人と研究者による検証の結果、現在のホーチミンで一般的に見られるバインミー用パンは小麦粉を主体に作られることが多く、「米粉が主原料」という説明は正確ではない。米粉の添加はグルテン形成を妨げ、むしろパンを重く密度の高いものにしてしまう。ただし19世紀から20世紀初頭にかけて、小麦の入手が困難だった時代に米粉が使われていた歴史的経緯はあり、その名残として誤解が続いている面がある。
バインミーのパンが最もおいしいのは、焼き上がってから数時間以内だ。薄い皮は時間とともに湿気を吸い、パリパリの食感が失われる。ホーチミンのパン屋が1日に複数回焼く習慣を持つのはこのためだ。日本で食べるバインミーが本場と異なる理由のひとつは、ここにある。輸送と時間を経たパンでは、あの薄い皮の食感を再現することが難しい。
なお、看板に「Lò Bánh Mì(ローバインミー)」と書かれた店は、店内に窯を持ちパンを自家製造している店を意味する。パンを外部から仕入れているバインミー屋とは、焼きたてのパンを使っている点で明確に異なる。迷ったときはこの表示を探す価値がある。
2-2 具材のすべて ―― 肉・なます・香草・ソースの役割
バインミーは具材の種類が非常に多いが、標準的な組み合わせには一定のパターンがある。各具材が果たす役割を理解すると、食べ方の幅が広がる。
まずパテ(pâté)。フランス植民地時代に伝わった食材で、バインミーにおいては必要不可欠な要素とされる。フランスの伝統的なパテが鴨や鵞鳥のフォアグラを使った滑らかなものを指すのに対し、ベトナムのパテは豚レバーまたは鶏レバーをベースに、挽き肉や五香粉などのアジア系スパイスを加えて作る。フランスのパテよりも粗めのテクスチャーになることが多く、スパイスの配合によって各店で味が異なる。パンの片面に厚く塗るのが基本で、このコクがバインミー全体の味の土台になる。
次にハム類。ベトナム語でthịt nguội(ティット・グオイ)と呼ばれる冷製肉の総称で、チャルア(蒸し豚ソーセージ)、ジオートゥ(豚の頭肉やプレスドポーク)、皮付きの薄切り豚肉などが使われる。店によって組み合わせは異なる。
日本人旅行者がはじめて見て「これは何?」と聞くことが多いのがパテで、次にマヨネーズだ。バインミーに使われるマヨネーズは、日本のものとは色も風味も異なる。ベトナム式マヨネーズは卵黄が多めで、やや黄色みがかった色をしている。日本のマヨネーズの白っぽい見た目と比べると、ホランデーズソースに近い外観だ。酸味の度合いも異なり、初めて食べると「これはマヨネーズなのか?」と思う人も多い。
ドーチュア(đồ chua)は、細切りの大根と人参を甘酢で漬けたなますだ。日本のなますとほぼ同じ製法だが、サンドイッチに入っていることを意外に思う日本人は多い。役割としては、パテやマヨネーズの油脂分をさっぱりとさせるカウンターバランスだ。この酸味がなければ、バインミーはかなり重い食べ物になる。
香草はパクチー(ngò)とキュウリが基本で、唐辛子の薄切りが加わることもある。パクチーについては好みが分かれるため、注文時に抜いてもらうことは可能だ。ただし、パクチーを抜いたバインミーは全体のバランスが変わる。脂っこさを感じやすくなる傾向がある。
ソースはマギー(Maggi調味料)、醤油系のタレ、チリソースなどが使われるが、配合は店によって完全に異なる。基本的にはオリジナルのソースをそのままかけてもらうのがその店のバインミーを正確に食べる方法だ。個人的には「ネギ多め、唐辛子抜き、なます抜き、目玉焼き入り」がよく頼むアレンジだが、具材の組み合わせを変えることで同じ店でも全く違う食べ方ができる。
2-3 屋台ごとに違う理由 ―― 何がバインミーの味を決めるのか
ホーチミンには数え切れないほどのバインミー屋がある。値段はどこも似たようなものだ。にもかかわらず、食べ比べると味は明確に違う。何がその差を生んでいるのか。
最大の要因はパンだ。自家製造か外部仕入れかによって、焼きたての鮮度が変わる。加えて、仕入れ元のパン屋によっても小麦粉の配合や焼き方が異なる。同じ具材を入れても、パンの皮の厚さ・軽さ・食感が違えば、食べた印象は別物になる。前述の「Lò Bánh Mì(ローバインミー)」表示のある店では、その店でパンを焼いているため、他の店との差が出やすい。
次にパテとソースの配合だ。豚レバーベースか鶏レバーベースか、スパイスの種類と量、テクスチャーの粗さ。これらはすべて店によって異なり、バインミー全体のコクと風味を大きく左右する。
具材の種類も重要だ。標準的なハム・パテのバインミーだけでなく、ホーチミンには全く異なる具材を使ったバインミーがある。カリカリに揚げた豚皮と豚バラのバインミー(バインミー・ヘオクアイ)は、肉の旨味と揚げた香ばしさが特徴で、パクチーや醤油との組み合わせが面白い。チャーカー(チャーカー、魚の揚げ物)を使ったもの、チャーボン(豚肉でんぶ)を使ったもの、肉団子のバインミーなど、具材のバリエーションはかなり幅広い。同じ「バインミー」という名前で売られていても、食べてみれば全く別の料理に感じることがある。
屋台の作業を見ていると、プロセスそのものはどこも似ている。パンを軽く温め直し、パテを塗り、具材を積み、ソースをかけて紙に包む。熟練した屋台では、この一連の作業が1分もかからずに終わる。難しそうに見えるポイントはなく、むしろその手際のよさに目が行く。しかし食べてみると、具材のバランスとソースの配分が結果を大きく変えていることがわかる。
屋台とカフェのような専門店の間に生じた差もある。この10年ほどで清潔感のある専門店が増え、メニューに具材の種類が明示されるようになった。一方で、路上の屋台には看板すらない場合も多く、注文は指差しか現地語の一言でおこなうことになる。言葉の壁はあるが、その分ローカルな雰囲気がある。どちらが正しいバインミー体験かという問いには意味がないが、両方を試してみると、この食べ物の幅の広さがよくわかる。
第3章 バインミーの種類図鑑
3-1 定番の具材バリエーション ―― まず知っておくべき基本の組み合わせ
バインミーを初めて食べる人に、まず理解してほしいのはこのことだ。バインミーには「これが正解」という一種類の具材の組み合わせは存在しない。具材のバリエーションは非常に広く、同じ店でも複数の種類を提供していることがほとんどだ。
最もポピュラーなのはバインミー・ティット・グオイ(bánh mì thịt nguội)、日本語に直訳すれば「冷製肉バインミー」だ。チャルア(蒸し豚ソーセージ)やジオートゥ(ヘッドチーズ)などのハム類を数種類、パテ、マヨネーズ、なます、パクチーを組み合わせる。これが「バインミーといえば」のスタイルとして世界的に認知されている組み合わせだ。
次に目玉焼きを挟むバインミー・チュン(bánh mì trứng)。ホーチミンの屋台では目玉焼きスタイルで提供されることが多く、半熟に仕上げる店が多い。とろりとした黄身がパテやソースと絡み、ハム系のバインミーとはまた違う食べごたえになる。朝食として食べる人が多い。
豚バラ肉を使うバインミー・バーロイ(bánh mì ba rọi)は、カリカリに揚げた豚バラが具材のバインミーだ。肉の旨味と揚げた香ばしさが特徴で、シンプルにネギ、パクチー、醤油ベースのソースと合わせるスタイルが多い。バインミーの中では比較的ずっしりとした食べ応えがある。
肉団子を使うバインミー・ジウマイ(bánh mì xíu mại)は、トマトソースで煮込んだ豚肉の肉団子が入る。ホーチミンのバインミー屋台でよく見かけるスタイルで、スープをパンに染み込ませながら食べる。汁気が多いため、食べ方に少しコツが要る。
価格帯は具材と店のスタイルによって大きく異なる。路上の屋台では30,000〜40,000ドン(2026年現在の相場で日本円にして約180〜250円)で購入できる。一方、ミシュランガイドに掲載されたバインミー・フィンホアは1本70,000ドン前後する。同じバインミーという食べ物でも、価格は2倍以上の差がある。
3-2 変わり種バインミー ―― ホーチミンで出会う個性的な一本
ホーチミンのバインミーで、個人的に最も印象に残っているのはバインミー・チャーカー(bánh mì chả cá)だ。
チャーカー(chả cá)は魚肉をすり潰し、香辛料と混ぜて揚げた魚のすり身揚げで、見た目はさつま揚げに近い。ホーチミンのバインミー店でチャーカーと書いてある場合、「Nha Trang風」と表記されていることが多い。これはチャーカーが中部沿岸の都市ニャチャン(Nha Trang)の名産品として知られているためだ。ニャチャン周辺の漁業が盛んな地域では、バラクーダやウルフヘリングなど小型の海水魚がチャーカーの原料として使われてきた。一方、ホーチミンなどの内陸に近いエリアでは、淡水魚のタックラック(featherback)を使ったチャーカーも一般的だ。
バインミー・チャーカーの特徴は、魚の風味と醤油ベースのシンプルなソースの組み合わせにある。ハムとパテのバインミーが西洋食材のベトナム化であるとすれば、チャーカーのバインミーはより土着的なベトナムの食材が主役だ。白ご飯と魚の揚げ物のような、シンプルで親しみやすい組み合わせ。この感覚は実際に食べてみないとわかりにくいが、ハムのバインミーとは全く異なる食体験になる。
もう一つ紹介したいのがBò Néのバインミーだ。Bò Né(ボーネ)はもともとバインミーとは別の料理で、鉄板の上に牛肉、目玉焼き、パテ、トマトなどを載せてジュージューと音を立てながら提供するホーチミンの朝食料理だ。これにバインミーが付いてきて、鉄板の上の全具材を自分でパンに詰め込んで食べる。すべての具材を一本のバインミーに詰め込んだ状態で食べるのは、その日の腹具合と要相談ではあるが、一度試してみる価値がある組み合わせだ。
バインミー・トゥオイ(bánh mì tươi)は、パン生地自体がふわふわな仕上がりの専門店スタイルのバインミーで、通常の薄いパリパリの皮とは全く異なる食感を提供する。「tươi」はベトナム語で「新鮮な」を意味する。パン生地がソフトで、具材のジューシーさがより前面に出る。好みは分かれるが、「バインミー=パリパリ」という先入観を持って行くと、予想外の食感に驚くことになる。
唐辛子については一点注意が必要だ。ホーチミンのバインミーには、青唐辛子の薄切りが入っていることがある。赤唐辛子と比べて目立ちにくく、なますと見た目が似ているため、気づかずに食べてしまうと辛さに驚くことになる。注文時に「Không ớt(コン・オット)」と伝えれば唐辛子なしにできるため、辛いものが苦手な場合はあらかじめ伝えておく方がいい。
3-3 南部・北部・中部で違うバインミー ―― 地域による個性
バインミーはホーチミン(南部)が発祥とされるが、現在ではベトナム全土で食べられている。ただし地域によってパンのサイズ、具材の傾向、食べ方が異なる。
ホーチミンのバインミーは、サイズが大きく具材が豊富なのが特徴だ。パンは長さ25〜30センチ程度が一般的で、複数種類のハムとパテ、マヨネーズ、豊富な野菜を詰め込む。具材の組み合わせに「何でもあり」的な自由さがあり、店ごとの個性が出やすい。ソースの種類も多く、マギー調味料から自家製の醤油ダレ、チリソースまで多様だ。
ハノイ(北部)のバインミーは、南部に比べてシンプルな傾向がある。パンのサイズがやや小ぶりで、具材も少なめ。ハム類よりも新鮮な食材を前面に出すスタイルが多く、全体的に控えめな印象だ。ハノイのストリートフードは全般的に南部より素材の味を生かしたシンプルな方向性があり、バインミーにもその傾向が出ている。
中部(ダナン、ホイアン)のバインミーは独自の進化を遂げている。ホイアンのバインミーは特に有名で、2000年代以降に国際的な観光客の間でも注目されるようになった。具材に独自の肉の煮込みや揚げ物を使い、ソースの構成が南部とは異なる。ホイアンのバインミー店は観光地化が進んでいるが、そもそも現地に根付いた独自スタイルの上に成り立っているため、観光向けに作られた料理とは一線を画している。
チャーカー(魚のすり身揚げ)のバインミーに「Nha Trang風」という表記が多いのも、地域性の現れだ。ニャチャンはベトナム中部南端に位置する港湾都市で、海産物を使った食文化が発達している。そのチャーカーがサイゴン(ホーチミン)に持ち込まれ、バインミーの具材として定着した。地域の名産品が移住者や商業流通によって他地域の料理に取り込まれていく過程が、バインミーの多様性のひとつの原動力になっている。
今後ホーチミンでバインミーを選ぶ際、どのタイプを食べるかを決める前に、まず自分の好みの軸を把握しておくと選びやすい。肉の旨味を前面に出したいならカリカリ豚(バーロイ)か焼き肉系。魚の風味を楽しみたいならチャーカー。定番のバランスを楽しむならハムとパテの組み合わせ(ティット・グオイ)。朝食として軽く食べたいなら目玉焼き(チュン)。一種類に絞る必要はなく、数日かけて食べ比べることをすすめる。
第4章 ホーチミンのバインミー文化
4-1 いつ食べるのか ―― バインミーと時間帯の関係
バインミーは朝食の食べ物というイメージがある。確かに早朝4〜5時から営業している屋台は存在し、出勤前の朝食として食べる人も多い。しかし長年ホーチミンで暮らしてきた実感として、バインミーを食べる時間帯は朝だけではない。昼過ぎにオープンする屋台もかなりあり、夕食の時間帯に食べる人も意外と多い。
ホーチミンの食文化全般に言えることだが、食事の時間帯は日本よりも幅広い。フォーの専門店が早朝から混み合う一方で、屋台の多くは自分のペースで営業時間を決めている。バインミー屋台の場合、仕入れたパンの量が売り切れたらその日は終わりというスタイルも多く、「何時に行けば確実に買える」という保証がない。目当ての屋台に行ったら売り切れていた、ということは在住者でも普通に起こる。
時間帯による食べ方の違いもある。朝に食べるバインミーはシンプルなものが多く、目玉焼きやハムのみのあっさりした組み合わせが好まれる傾向がある。夕方から夜にかけては、よりボリュームのある具材の組み合わせを選ぶ人が増える印象だ。
バインミー・フィンホア(Bánh Mì Huỳnh Hoa)は、こうした時間帯の話をするうえで特に興味深い事例だ。現在は1区Lê Thị Riêng通りに店を構えるこの店、数年前まで開店時間が午後3時半だった。朝食でも昼食でもない時間帯の開店は異例に映るが、フィンホアのバインミーはパンのサイズが通常より大きく、具材のボリュームも多い。夕食として食べるには十分な食べ応えがある。午後3時半という開店時間は、その店のバインミーが夕食向けに設計されていたことを示しているとも読める。現在は午前中から営業しており、1日中行列が絶えない店になっている。
バインミーを「いつ食べるか」には正解がない。ホーチミンの人々が朝・昼・夜を問わずバインミーを手にしている光景が、この食べ物のポジションを端的に表している。特定の時間帯に縛られていない食べ物だからこそ、旅行者も滞在のどのタイミングでも試すことができる。
4-2 屋台・食堂・専門店 ―― ホーチミンのバインミー業態を整理する
ホーチミンでバインミーを売っている場所は大きく3つに分類できる。路上屋台、街の小さなバインミー専門食堂、そして近年増えた清潔感のある専門店チェーンだ。それぞれに異なる特徴があり、何を優先するかによって選び先が変わる。
路上屋台は最もローカル色が強い。カートや小さなテーブル1枚で営業しており、座る場所がない場合も多い。パンは外部の製パン業者から仕入れていることが一般的で、朝に配達されたパンをその日のうちに売り切る形だ。価格は30,000〜40,000ドン程度と最も安く、注文は指差しか短いベトナム語一言でおこなう。メニュー表示がない店も多く、その日の具材を見て選ぶか、「普通のやつをひとつ」という形で注文することになる。
第2章で紹介した「Lò Bánh Mì(ローバインミー)」表示のある自家製パンの店は、焼きたてのパンを使えるため、皮のパリパリ感が屋台のものとは異なる。具材も自家製の場合があり、パテやハムを店内で作っている場合はソースの個性が出やすい。価格はやや高めになるが、パンそのものの品質という点で差が出る。
観光客向けの清潔感のある専門店も増えている。Bánh Mì 362のような店はエアコンの効いた店内で食べられ、メニューが整理されて英語表記もある。価格は路上屋台より高くなるが、はじめてホーチミンでバインミーを食べる旅行者には入りやすい環境だ。ただし、こうした店が提供するバインミーが「本場のバインミー」かどうかは別の話で、路上屋台と食べ比べてみると違いがわかる。
バインミー・フィンホアはその中間にある独自のポジションだ。国内外のメディアで広く紹介されているこの店は、観光客にも地元民にも広く知られている。パンのサイズが大きく、具材の種類と量が多い。フィンホアを食べた人は、ほぼ例外なくおいしいと言う。一方で、地元民が日常的に食べるバインミーとは価格帯(1本70,000ドン前後)も規模感も異なる特別な存在として認識されている。
業態の多様さは、バインミーという食べ物が特定の消費者層に向けて存在していないことの証でもある。30,000ドンの屋台のバインミーも、70,000ドンのフィンホアも、同じバインミーという名前で並んでいる。価格の幅があること自体が、この食べ物の間口の広さを示している。
4-3 食べ方と注文の作法 ―― 地元流のバインミーとの向き合い方
バインミーの食べ方に「正しい作法」があるわけではない。ただ、ホーチミンで食べ続けてきた経験から、いくつか伝えておきたいことがある。
まず、ソースと具材の組み合わせは店のオリジナルを基本とすることをすすめる。各店のバインミーは、その店のパテ・ソース・具材が一体となって設計されている。初めての店ではまず「その店のバランス」を確認するのが、その店のバインミーを正確に評価する方法だ。食べた後に「もう少しこうしてほしい」という好みがあれば、次回アレンジを加えればいい。
個人的によく頼む組み合わせは、目玉焼き入り・ネギ多め・唐辛子なし・なます抜きだ。目玉焼きは半熟で仕上げてくれる店が多く、黄身のとろみがソースと混ざって全体を繋ぐ役割をする。なますは酸味のカウンターバランスとして機能するが、食べ慣れてくると自分の好みで抜いたり量を調整したりするようになる。唐辛子については、前の章でも書いた通り、青唐辛子が入っている場合があるため、辛さが苦手な場合は最初から「Không ớt(コン・オット)」と伝える方が安全だ。
バインミーはパリパリの皮が盛大にこぼれる食べ物だ。店内で食べるスタイルの専門店なら問題ないが、路上で立ったまま食べるか、近くのコーヒー屋台に腰を落ち着けて食べるのがホーチミン流だ。路上のプラスチック椅子に座り、カフェ・スア・ダー(cà phê sữa đá、甘いミルクコーヒー)と一緒に食べる。この組み合わせは、ホーチミンの朝食文化の定番のひとつだ。バインミーの塩気とコーヒーの甘さが合う。開放感のある路上での食事は、同じバインミーでも店内で食べるのとは異なる体験になる。
注文の際、ベトナム語が話せなくても指差しで通じる場合がほとんどだ。具材が並んでいる屋台であれば、食べたいものを指さすか、「Một ổ(モッ・オー)=ひとつください」と言えば注文は成立する。価格は事前に確認するか、出してもらった金額を支払う形が一般的だ。おつりのやり取りは基本的に問題なく行われる。
バインミーを旅行中に何度か食べるなら、同じ種類を繰り返すより、屋台・専門店・ローバインミー店と業態を変えながら試してみることをすすめる。同じバインミーという名前でも、パンの焼き方・具材の組み合わせ・食べる環境によって全く違う食体験になる。それがこの食べ物の幅の広さだ。
第5章 ホーチミン バインミー名店案内
5-1 バインミー・フィンホア ―― 1区のアイコン的存在
ホーチミンでバインミーを1軒だけ選ぶとすれば、多くの在住者が迷わず挙げる店がある。1区Lê Thị Riêng通り26番地、バインミー・フィンホア(Bánh Mì Huỳnh Hoa)だ。
1989年創業。30年以上にわたってホーチミンのバインミーを代表する店として国内外に知られ、現在は1区Lê Thị Riêng通りの本店を中心に展開している。South China Morning Postなど海外メディアにも取り上げられ、海外メディアや旅行者の口コミでたびたび取り上げられている。
フィンホアの最大の特徴は具材の種類と量だ。定番のLサイズには、チャルア(蒸し豚ソーセージ)、ジオートゥ(ヘッドチーズ)、ダムボン(ハム)2種、ガーリックソーセージ2種、チャーボン(豚肉でんぶ)、シャシウ(チャーシュー)、自家製パテ、バターが入る。ハム類だけで6種類以上という構成だ。パンのサイズも通常より大きく、中身の密度も高め。ボリュームは1本で2人分になることも珍しくない。
フィンホアを食べた人はほぼ例外なくおいしいと言う。ただし価格は60,000〜80,000ドン程度(2026年時点)で、路上屋台の約2倍だ。常に行列があり、観光客・地元民・デリバリーライダー用の列が並行して存在する。GrabFoodでの配達注文にも対応しているため、行列を避けたい場合はデリバリーという選択肢もある。
住所:26 Lê Thị Riêng, Quận 1 / 営業時間:6:00〜22:00(年中無休) / 価格:60,000〜80,000ドン程度 / ※最新情報はGoogle Mapでご確認ください
5-2 目的別・エリア別 おすすめ店リスト
フィンホア以外で、実際に足を運ぶ価値のある店を目的・エリア別にまとめた。屋台から老舗まで、それぞれに異なる個性がある。
【歴史・文化を味わう】バインミー・ホアマ(Bánh Mì Hòa Mã)
3区Cao Thắng通り53番地。1958年創業、バインミー・ティットの発祥の地として記録されているホアマが移転した先の店舗で、現在も3世代にわたって営業を続けている。
この店の独自スタイルは「バインミー・チャオ(bánh mì chảo)」だ。通常のサンドイッチではなく、鉄板の上に目玉焼き、ソーセージ、ハム類を載せて提供し、客が自分でパンに詰めながら食べる形式。ベトナム語で「chảo」は鍋や鉄板を意味し、ジュージューと音を立てながら運ばれてくる。ホーチミンの朝食文化を体験するという意味でも訪れる価値がある。営業は朝6時から11時までと短く、地元民が早朝から詰めかける。
住所:53 Cao Thắng, Quận 3 / 営業時間:6:00〜11:00 / 価格:50,000〜70,000ドン / ※最新情報はGoogle Mapでご確認ください
【焼き肉バインミー】バインミー37 Nguyễn Trãi(Bánh Mì Thịt Nướng Hẻm 37)
1区Nguyễn Trãi通り路地39番、屋台形式の小さな店だ。創業から20年以上、コンデナスト・トラベラー誌に「世界の優れたストリートフード12選」のひとつとして選ばれたこともある屋台。
看板メニューは炭火焼きの豚肉ミートボール(ネムヌオン)のバインミー。手ごねした豚ひき肉に自家製ソースで下味をつけ、炭火でこんがりと焼いて仕上げる。焼きたてをそのままパンに挟む。ヤキトリに近い甘辛いグレーズがかかった肉団子は、ハムとパテのバインミーとはまったく異なる食体験だ。営業は16時から20時前後と短い。
住所:Hẻm 39 Nguyễn Trãi, Quận 1 / 営業時間:16:00〜20:00頃 / 価格:40,000ドン前後 / ※最新情報はGoogle Mapでご確認ください
【チャーカー】Nguyễn Thị Minh Khai通りの屋台
3区Nguyễn Thị Minh Khai通り、Đinh Tiên Hoàng交差点近くの屋台。旅行者にはほぼ知られていないが、チャーカー(魚のすり身揚げ)を使ったバインミーが目当ての地元客が絶えない。
ニャチャン風チャーカーを醤油ベースのシンプルなソースで合わせる。ハムとパテのバインミーとは全く異なる方向性で、魚の風味が主役の素朴な組み合わせだ。屋台形式で英語は通じないが、指差しで注文は成立する。
住所:Nguyễn Thị Minh Khai, Quận 3(Đinh Tiên Hoàng交差点近く) / 価格:30,000〜35,000ドン
【カリカリ豚】Xuân Thủy通りの店(Thảo Điền)
2区Thảo Điền(タオディエン)エリア、Xuân Thủy通りにある。店頭に大きな塊のカリカリ豚がぶら下がっているのが目印だ。
バーロイ(ba rọi)と呼ばれるカリカリに揚げた豚バラ肉を使い、ネギ・パクチー・醤油との組み合わせで食べる。常に地元民で混み合う。タオディエンは外国人居住者が多いエリアだが、この店の客層はベトナム人が中心だ。
住所:Xuân Thủy, Thảo Điền, Quận 2 / 価格:35,000〜40,000ドン
【観光客向け・落ち着いた環境で食べたい】バインミー362(Bánh Mì 362)
市内複数店舗展開。エアコンの効いた清潔な店内で食べられる専門店チェーンで、メニューが整理されており英語表記もある。子ども連れでも入りやすく、ゆっくり落ち着いて食べることができる。ローカル感は薄れるが、初めてホーチミンでバインミーを食べる旅行者の入門店として機能する。
住所:市内複数店舗(1区・3区など) / 価格:50,000〜80,000ドン
5-3 店を選ぶときの判断基準
ホーチミンでバインミーを食べるとき、どの店に入るかの判断基準をまとめておく。
まず「Lò Bánh Mì(ローバインミー)」の表示があるかどうか。自家製パンを焼いている店とそうでない店では、パンの鮮度と食感に差が出る。この表示を探すことが、パンの品質を見極める最も簡単な方法だ。
次に客層の確認。地元のベトナム人だけが並んでいる店は信頼の目安になる。観光客が多い店は必ずしも品質が低いわけではないが、地元民に支持されているかどうかは独立した評価軸になる。
具材が見えるかどうかも重要だ。屋台では具材がオープンになっていることが多く、チャーカーの屋台ならチャーカーが、カリカリ豚の店なら豚の塊がぶら下がっている。何が入っているかを注文前に確認できる。
価格帯と自分の目的を合わせること。30,000ドンの屋台と70,000ドンのフィンホアに優劣はない。路上で立って食べるのか、座って落ち着いて食べるのか、具材の多様さを楽しみたいのか。目的によって適切な店が変わる。
最後に、個人的には、ホーチミンでバインミーを食べて大きく外した経験は少ない。ただし衛生面・辛さ・具材の好みは店によって差があるため、初めての場合は客が多い店を選ぶと安心だ。迷ったら目の前の屋台に入ってみることをすすめる。
第6章 注文・食べ方・合わせる飲み物
6-1 注文の作法 ―― これだけ知っていれば十分なベトナム語
ホーチミンのバインミー屋台で注文するとき、複雑な言葉は必要ない。ほとんどの屋台はメニューがなく、扱う具材も1種類か2種類だ。そのため「Một ổ bánh mì(モッ・オー・バインミー)=バインミーをひとつ」と言えば、基本的に注文は成立する。
ただし、アレンジを加えたい場合はいくつかのフレーズを覚えておくと便利だ。以下は実際によく使う4つの表現だ。
① Không ớt(コン・オット)―― 唐辛子なしで
「không」は否定を表すベトナム語で、「ớt」は唐辛子を指す。前の章でも触れたが、バインミーには気づきにくい青唐辛子が入っていることがある。辛いものが苦手な場合はこのフレーズを最初に伝えておくのが確実だ。
② Thêm ốp la(テム・オップ・ラー)―― 目玉焼きを追加
「thêm」は追加を意味し、「ốp la」はフライドエッグを指す。バインミーへの目玉焼き追加は一般的なカスタマイズで、ほとんどの屋台で対応している。半熟で仕上げてくれる店が多く、黄身のとろみが全体のソースとよく絡む。
③ Nhiều hành(ニウ・ハイン)―― ネギを多めに
「nhiều」は「多い」を意味し、「hành」はネギを指す。ネギの風味がバインミー全体を引き締めるため、ネギ好きにはおすすめのカスタマイズだ。
④ Không đồ chua(コン・ドーチュア)―― なます(酢漬け野菜)なしで
「đồ chua」は酢漬けの野菜、つまりなますを指す。なますの酸味が苦手な場合や、好みで抜きたい場合に使う。ただしなますはバインミー全体の油脂分をさっぱりさせる役割を担っているため、抜くと全体的にやや重く感じることがある。
これら4つのフレーズを組み合わせれば、自分好みのバインミーに仕上がる。ベトナム語が話せなくても、フレーズを紙に書いて見せるか、スマートフォンの画面に表示するだけで通じる場合がほとんどだ。カスタムの注文が完全に伝わらないことも時々あるが、トラブルに発展することはまずない。
支払いのタイミングは店によって異なる。多くの屋台では受け取り時に払うが、バインミー・フィンホアのように注文時に先払いを求める店もある。フィンホアの場合は入店時に注文・支払いをして、番号札かレシートを受け取り、呼ばれたら品物を取りに行く形式だ。初めて行くと戸惑うことがあるため、あらかじめ知っておくといい。
6-2 食べ方 ―― 崩さず、こぼさず、楽しむために
バインミーの食べ方に正解はない。立って食べても、座って食べても、歩きながらでもいい。ただし、知っておくと食べやすくなることが2点ある。
ひとつ目は、食べる前に青唐辛子が入っていないか確認することだ。バインミーを受け取ったら、包み紙を少し開いて断面を見る。緑色の細い輪切りが入っていたら青唐辛子だ。唐辛子を注文時に抜いてもらったつもりでも、入っている場合がある。確認してから一口目を食べるのが安全だ。
ふたつ目は、食べる場所の確認だ。バインミーのパンは外皮がパリパリとしており、かじるたびに皮の欠片が盛大にこぼれる。これは仕様であり、バインミーである以上避けられない。屋内の清潔な環境で食べたい場合はエアコン付きの専門店を選ぶのがいいが、ローカルな屋台で買った場合は屋外で立って食べるか、近くのコーヒー屋台のプラスチック椅子に座って食べるのが自然なスタイルだ。
包み紙はそのまま手に持ちながら食べるのが一般的だ。包み紙をずらしながらかじっていくことで、手が汚れにくくなる。食べ進めるにつれて具材が崩れて包み紙の底にたまることがある。最後にそれをすくって食べるのも、バインミーを食べ切るひとつの方法だ。
かじり方については特に作法がない。バインミーは「豪快にかぶりつく食べ物」で、フォークやナイフを使う場面はまずない。ホーチミンの路上でバインミーを手に持つ人を観察すると、みな同じようにかぶりついている。それが正しい食べ方だ。
食べ終わった包み紙は近くのゴミ箱へ。屋台の周辺にゴミ箱が見当たらない場合は、屋台の店主に渡すか、次のゴミ箱まで持ち歩く。路上にそのまま捨てる習慣は地元では見られるが、旅行者として真似する必要はない。
6-3 バインミーに合わせる飲み物
バインミーに何を合わせるか。答えはほぼひとつだ。コーヒーだ。
ホーチミンのバインミー屋台の近くには、必ずと言っていいほどコーヒー屋台か小さなカフェがある。バインミーを手に、路上のプラスチック椅子に座ってコーヒーを飲む。これがホーチミンの朝食・昼食の定番スタイルだ。
合わせるコーヒーの種類は、バインミーの味に応じて変えるのが理にかなっている。
ハムとパテの標準的なバインミーや、カリカリ豚など塩気の強い具材の場合は、カフェ・スア・ダー(cà phê sữa đá)がよく合う。ベトナムの定番アイスコーヒーで、コンデンスミルクで甘くした濃いドリップコーヒーに大量の氷を加えたものだ。塩辛いバインミーと甘いミルクコーヒーの対比は、食べ合わせとして理に適っている。ホーチミンの暑さの中で飲む冷たいカフェ・スア・ダーは、バインミーとセットで記憶に残る組み合わせになる。
あっさりした具材のバインミー、たとえばチャーカーや野菜多めのスタイルの場合は、カフェ・ダー・イット・ドゥオン(cà phê đá ít đường)がいい。直訳すると「砂糖少なめのアイスコーヒー」で、コーヒー本来の苦みと香りを活かしながら甘さを控えた仕上がりになる。食事全体のバランスが取りやすい。
なお、「ít đường(少糖)」と伝えても店によって甘さの基準が違うため、完全にコントロールするのは難しい。注文時に味を見てから砂糖を足す、という形の方がホーチミンでは現実的だ。
コーヒー以外の選択肢もある。ヌック・ミア(nước mía、サトウキビジュース)は甘くてさっぱりとした飲み物で、路上の搾りたてが手に入る。バインミーの塩気とのバランスはいいが、甘さが強いため好みが分かれる。ヌック・チャイン・ムオイ(nước chanh muối、塩レモンジュース)は酸味と塩気を持つ飲み物で、暑い日の水分補給としては優秀だが、バインミーとの相性はコーヒーほどではない。
結局のところ、バインミーにはコーヒーが一番合う。この組み合わせがホーチミンの食文化として定着しているのは、理由があってのことだ。
第7章 バインミーをもっと楽しむために
7-1 食べ歩きモデルルート ―― Lê Thị Riêng周辺の半日コース
ホーチミンでバインミーを食べ歩くなら、1区Lê Thị Riêng通り周辺から始めるのが効率的だ。フィンホアを中心に、徒歩圏内に複数の個性的な店が集まっている。
まず起点はバインミー・フィンホア(26 Lê Thị Riêng)だ。ただし、フィンホアはボリュームが大きい。1本を2人で分けるか、ひとりなら半分だけ食べて残りは持ち歩くという手もある。この段階で満腹になってしまうと、食べ歩きが続かない。
フィンホアから徒歩数分の範囲に、バインミー・バーフィン(Bánh Mì Bà Huynh)がある。フィンホアとは異なる具材の構成と価格帯の店で、同じエリアで食べ比べができる。フィンホアのボリューム重視とは異なる方向性のバインミーを確認できる。
同エリアにはA Tùng(Bánh Mì Bò Nướng Bơ Campuchia)という、カンボジア式バターで焼いた牛肉を使ったバインミーの屋台もある。「Bò Nướng Bơ Campuchia」は直訳すると「カンボジア風バター焼き牛肉」で、通常のハムとパテとは全く異なる具材の組み合わせだ。この一帯は、さまざまなスタイルのバインミーが競合している密度の高いエリアだ。
午前中から昼過ぎにかけて動くのがおすすめだ。フィンホアは現在6時から営業しているが、昼前後は観光客と地元民の両方で混み合う。比較的空いている早い時間に訪れるか、GrabBikeで移動しながら効率よく回るのがいい。
食べ歩きのペースは、1軒で1本を全部食べようとしないことがポイントだ。ホーチミンのバインミーは1本でも十分な食事量になる場合が多い。数軒をはしごするなら、1本を誰かと半分ずつ、あるいは数口味見する程度に留めておくと、複数の店を比較しやすい。
7-2 お土産とホーチミンの外でバインミーを楽しむ方法
ホーチミンでバインミーに関連したお土産を探すなら、食品よりも雑貨の方が現実的だ。バインミーのパン自体は、日本への持ち帰りには向かない。前の章で繰り返し書いた通り、バインミーのパンは焼き上がってから数時間以内が最もおいしく、時間が経つと皮の食感が失われる。輸送を経たパンはすでにバインミーの魅力の核心部分を失っている。パテやハムも生鮮品であり、機内持ち込みや検疫の観点から現実的ではない。
一方で、バインミーをモチーフにした雑貨はホーチミンの土産物屋で見つかる。バインミーのキーホルダー、バインミーのイラストが入ったTシャツ、マグネットなどがある。食べ物としてのバインミーを持ち帰ることはできないが、旅の記念として形に残したい場合はこうしたグッズが選択肢になる。ベンタイン市場周辺や、バックパッカー街として知られるファングーラオ通り(Phạm Ngũ Lão)周辺の土産物店で見つかることが多い。
日本でバインミーを再現するのは、残念ながら難しい。本場と同じパンを作るには専用の窯と技術が必要で、家庭での再現はほぼ不可能だ。日本国内のベトナム料理店やバインミー専門店でも提供されているが、パンのパリパリ感という点では本場に及ばないことが多い。日本で食べたバインミーで、あのパンの食感が出ていた経験はない。
これはバインミーに限った話ではないが、焼きたてを前提とする食べ物は、その場でしか完全には再現できない。バインミーを本当に楽しむためにホーチミンに来る、という選択は、その意味で合理的だ。実際に「バインミーが食べたい」という理由でホーチミンを訪れる旅行者は存在する。食べ物ひとつを理由に渡航を決める行動は、バインミーという食べ物がそれだけの体験を提供しているということの証でもある。
7-3 バインミーが教えてくれること ―― 在住14年の視点から
14年以上ホーチミンに住んで、バインミーについて気づいたことがひとつある。バインミーは、ほぼ変わらない。
ホーチミンの食文化は全般的に変化が速い。カフェは半年で入れ替わり、人気のレストランが突然閉まり、新しい料理のブームがあっという間に来ては去っていく。しかしバインミーに関しては、そのサイクルがほとんど見えない。新しいコンセプトのバインミーが話題になることはあっても、昔ながらの屋台が廃れるわけではないし、基本的な構成はほとんど変わっていない。
これは、バインミーが「流行の食べ物」ではなく「インフラとしての食べ物」だからだろう。毎朝、毎昼、毎晩、誰かがどこかでバインミーを食べている。外食でも、持ち帰りでも、配達でも、バインミーはホーチミンの人々の食生活の基盤にある。そういう食べ物は、流行に左右されない。
バインミーという食べ物が、フランスの植民地支配という外圧のなかで生まれ、北部からの移住者によって現在の形に近づき、戦争と貧困と経済発展を経てもなお変わらず食べられ続けていることには、単なる食の話を超えた意味があるかもしれない。ただ、それを「感動的」と言言葉にするのは少し大げさな気がする。むしろ、これだけのことを経験した国で、150円のパンが朝も夜も普通に売られているという事実の方が、ホーチミンという街を端的に表しているように思う。
最後に、ベトナムという国について感じていることを書いておく。ホーチミンに14年住んで気づくのは、「〇〇じゃないとだめ」という考え方が非常に少ない国だということだ。バインミーも同じで、どんな具材で食べても、どの店で食べても、どんな時間帯に食べても、誰もそれを否定しない。正しい食べ方があるとすれば、それは「自分が食べたいように食べる」ということだ。
この記事を読んで、バインミーに興味を持った方がいれば、ぜひホーチミンに来てほしい。
そして、この記事で紹介した店でも、紹介していない路地の屋台でも、目についた場所で一本買ってみてほしい。どこで食べても、ホーチミンのバインミーはホーチミンのバインミーだ。
エピローグ ―― また食べたくなるバインミー
この記事を最後まで読んでくれた方に、ひとつだけ伝えておきたいことがある。
バインミーは、説明が長くなる食べ物だ。歴史があり、地域差があり、具材のバリエーションがあり、食べ方がある。しかし、実際に屋台の前に立って「Một ổ」と言えば、30秒もしないうちに手の中に収まる。そのギャップが、バインミーという食べ物の本質かもしれない。
フランスの植民地支配が生んだパンが、ベトナム人の手によって完全に別の食べ物になった。150円で買える。どこにでもある。でも、かじった瞬間に「これはここにしかない」とわかる。
ホーチミンに来たら、まず一本食べてみてください。


